【世界の偉人③】ダニエル・ベルヌーイ — サンクトペテルブルクのパラドックスと期待効用
📅 2026年8月30日 公開
連載「世界の偉人たち」第3回。前回のハレーが「寿命」を計算可能にしたなら、今回の主人公は「人間の判断」を計算可能にした人物です。物理の教科書に登場する「ベルヌーイの定理」のあの人が、投資理論の原点にも立っている——ダニエル・ベルヌーイの物語です。
生涯 — 数学者だらけの一族に生まれて
ダニエル・ベルヌーイ(Daniel Bernoulli, 1700-1782)は、スイス・バーゼルを拠点とした史上最強の数学一族に生まれました。父ヨハンと伯父ヤコブはライプニッツ流の微積分学を発展させた大数学者。ヤコブは確率論の金字塔『推測法』で大数の法則を証明した人物です。ダニエル自身は父から医学の道を勧められ医学の学位を取りますが、血筋には逆らえず数学・物理学の世界へ。若くしてロシアのサンクトペテルブルク科学アカデミーに招かれ、後にバーゼル大学の教授として植物学・生理学・物理学の講座を歴任しました。
物理学では、流体の速さと圧力の関係を示した「ベルヌーイの定理」(主著『流体力学』1738年)で不朽の名を残します。飛行機の翼の揚力の説明でおなじみのあの定理です。そして同じ1738年、彼はもう一つの分野——経済学と意思決定理論——の歴史を変える論文を発表します。
サンクトペテルブルクのパラドックス — 期待値が壊れる場所
発端は、従兄のニコラウス・ベルヌーイが提起した次のゲームでした。
期待値を計算してみましょう。1回目で終わる確率1/2で賞金2、2回目で終わる確率1/4で賞金4……なので
$$E = \frac{1}{2}\times 2 + \frac{1}{4}\times 4 + \frac{1}{8}\times 8 + \cdots = 1 + 1 + 1 + \cdots = \infty$$
期待値は無限大。期待値を判断基準にするなら、全財産を払ってでも参加すべきです。しかし現実には、このゲームに大金を払う人はいません。せいぜい数十円というのが大方の感覚でしょう。理論と直感が真っ向から衝突する——これが「サンクトペテルブルクのパラドックス」です(ダニエルが解答を発表したアカデミーの所在地にちなむ名前です)。
1738年の解答 — 「金額」ではなく「効用」で測る
ダニエルの答えは、その後の経済学の方向を決めるものでした。人は金額そのものではなく、金額がもたらす満足(効用)で判断する。そして追加の1単位がもたらす効用は、財産が増えるほど小さくなる——限界効用の逓減です。彼は効用が財産の対数(log)に比例すると考えました。対数のように上に凸な効用関数で測り直すと、賞金の伸び(2倍、2倍…)が効用の上ではどんどん目減りし、ゲームの「効用の期待値」は有限の値に収まります。無限大の期待値と、数十円しか払わない直感が、一つの理論で両立するのです。
お気づきでしょうか。これは期待効用と確実等価額、ジェンセンの不等式で学んだ内容そのものです。凹型の効用関数・期待効用・リスク回避——投資理論の第1章に並ぶ道具立ては、1738年のこの論文が原型です。約200年後、フォン・ノイマンとモルゲンシュテルンが期待効用理論として公理的に再構築し、現代のファイナンス理論の土台になりました。
KKTとのつながり
投資理論の効用分野では、効用関数から期待効用・確実等価額・リスク・プレミアムを計算する問題が定番です(確実等価額の計算は過去10年で7回出題)。u(x) = log x や √x といった凹関数が与えられたとき、その背後には「無限大の期待値でも人は大金を払わない」というベルヌーイの洞察があります。単なる計算手順ではなく、人間のリスクへの態度を数学に翻訳した最初の試みだと知っていれば、この分野の見え方が変わるはずです。
ちなみに、保険という商売が成り立つ理由——期待損失より高い保険料を払ってでも安心を買う人がいること——も、限界効用逓減から導かれます。ベルヌーイ自身、論文の中でリスクを分散することの利益に触れています。アクチュアリーの仕事の理論的な祖先は、ここにもいるのです。
次回の偉人伝は、アルフレッド・マーシャル。需要と供給という「はさみ」を作った男を取り上げます。
※ 厳密に言えば(補注)
- ダニエル・ベルヌーイの出生地はバーゼルではなく、父ヨハンが当時教授を務めていたオランダのフローニンゲンです。一族の拠点がバーゼルであったことは本文の通りで、ダニエル自身も1733年以降はバーゼル大学で教鞭をとりました。
- ベルヌーイの定理は翼まわりの流れの解析に関係しますが、揚力の発生そのものは翼の形状・迎え角・循環・空気の下向きの偏向まで含めて初めて説明できます。「上面は距離が長いから空気が速くなる」といった通俗的な説明だけでは正確ではありません。
- 本文の「数十円」は直感の例示です。対数効用で期待効用が有限になること自体は確かですが、実際にいくらまで払うか(確実等価額)は初期財産・効用関数の形・賞金の支払上限などに依存し、理論から一意に導かれる数値ではありません。
- 「人間のリスクへの態度を数学に翻訳した最初の試み」は厳密には言い過ぎです。パラドックスの出題者である従兄ニコラウス・ベルヌーイに宛てて、ジュネーヴの数学者ガブリエル・クラメールが1728年頃の書簡で、金額ではなく「道徳的価値」(平方根型の評価)で測るという先行的な解答を示しており、ダニエル自身も1738年の論文でこれに言及しています。ダニエルの功績は、対数効用による体系的で影響力の大きい定式化にあります。
- 「確実等価額の計算は過去10年で7回出題」は、執筆時点での当サイトによる過去問分析に基づく集計です。期待効用・リスク・プレミアム経由の出題をどこまで「確実等価額の計算」に含めるかの基準により、数え方は多少変わり得ます。
- 期待損失より高い保険料を払ってでも保険に入ることが合理的になるという説明は、期待効用最大化と凹型効用(リスク回避)を仮定したモデル上の結論です。保険料がいくら高くてもよいわけではなく、確実等価額を超える保険料なら加入しないのが合理的です。
📖 あわせて学ぶ(無料講義・動画)
📚 参考文献・参考リンク