【日本の礎③】早矢仕有的 — 丸善を創った医師は、なぜ保険会社の発起人になったのか
📅 2026年8月31日 公開
連載「日本の保険の礎」第3回。今回の主人公は、一見すると保険とは縁がなさそうな人物です。丸善——あの書店・文具の老舗を創業した早矢仕有的(はやし・ゆうてき)。医師であり、実業家であり、そして前回描いた明治生命の誕生に関わった発起人の一人です。
生涯 — 医師から「文明の輸入商」へ
早矢仕有的(1837-1901)は美濃国(現在の岐阜県)の生まれ。医学を学んで医師となり、後に江戸へ出て福澤諭吉の門下に入ります。ここでもまた福澤門下——第1回で見た「思想を実業に変えるネットワーク」の一員です。
維新後の明治2年(1869年)、早矢仕は横浜に商店「丸屋商社」(店名は「丸屋」)を開きます。これが後の丸善です。扱ったのは洋書、洋品、医療器械、文具——つまり西洋文明そのものを輸入して売る店でした。日本の知識人が洋書を手に入れられる数少ない窓口として、丸善は明治の学問と実業を物資の面から支えます。福澤が書物で説いた文明開化を、早矢仕は「商品」として日本に運んだのです。ちなみに、洋食の定番ハヤシライスの名は早矢仕有的に由来するという説があることでも知られています(諸説あり、と付記しておきます)。
書店主が保険会社の発起人になった理由
明治14年(1881年)、日本初の近代的生命保険会社・明治生命が設立されたとき、発起人には阿部泰蔵や荘田平五郎らとともに早矢仕有的の名がありました。書店主がなぜ保険会社の設立に加わったのか。
当時の感覚では、これは不思議なことではありませんでした。保険も洋書も銀行も、明治日本にとっては等しく「輸入すべき西洋の仕組み」だったからです。早矢仕は丸屋の経営で、為替や金融の実務にも通じていました(丸屋は銀行類似の業務も手がけています)。西洋の制度に通じ、事業を興す資力と実務経験を持ち、福澤門下として相互に信頼できる——保険会社の発起人に求められる条件を、早矢仕は全て備えていたのです。
「知の流通」と「リスクの流通」
早矢仕の二つの事業を並べると、美しい対応が見えてきます。丸善がやったのは知識の流通——書物を通じて、西洋の学問を必要とする人に届けること。保険がやるのはリスクの流通——個人が抱えきれない危険を、集団で引き受け直すこと。どちらも「必要なものが必要な場所に届く仕組み」を作る仕事であり、明治の近代化はこうしたインフラの整備の積み重ねでした。
そして丸善はもう一つ、本連載と縁の深い役割を果たし続けます。アクチュアリーを志す学生が確率論や保険数学の洋書を手にする場所も、長らく丸善のような洋書店でした。KKTの指定教科書を書店で手に取るとき、その流通網の起点に医師出身の一人の実業家がいたことを、少しだけ思い出してみてください。
アクチュアリー試験とのつながり
保険会社の設立には、資本を集める仕組み(株式会社制度)、信用を測る仕組み(会計)、リスクを値付けする仕組み(保険数理)が同時に必要でした。KKTで学ぶ会計も、新科目として登場する金融システムも、明治の人々が輸入と実践で組み上げたこの土台の延長線上にあります。
次回の「日本の礎」は、渋沢栄一と東京海上の誕生。日本初の保険会社がどのように生まれたのかを追います。
※ 厳密に言えば(補注)
- 「新科目として登場する金融システム」は、日本アクチュアリー会が2026年4月に公表した資格試験・研修制度の見直しに基づき、2027年度以降の第1次試験で導入が予定されているものです。詳細はリンク先の解説記事をご参照ください。
- 会計を「信用を測る仕組み」と書きましたが、厳密には、会計は財政状態や経営成績を記録・報告する情報基盤であり、信用の評価は会計情報に加えて資本・収益力・担保など複数の要素で行われます。また「同時に必要でした」は事業運営上の要点を並べた表現であり、当時これらの制度がすべて法的に整備済みだったという意味ではありません。
- 「学びのネットワークから生まれた」という構図は、本文で取り上げた明治生命の創設過程に特によく当てはまるものです。日本の保険業全体の成立には、たとえば東京海上における三菱系の海運業や政府の政策など、福澤門下のネットワーク以外の要因も大きく関わっています。
📖 あわせて学ぶ(無料講義・動画)
📚 参考文献・参考リンク