【日本の礎④】渋沢栄一と東京海上の誕生 — 日本初の保険会社はこうして生まれた
📅 2026年9月8日 公開
連載「日本の保険の礎」第4回。これまで福澤諭吉・阿部泰蔵・早矢仕有的と慶應義塾の系譜をたどってきました。今回登場するのは別の流れ——「日本資本主義の父」と呼ばれ、新一万円札の顔にもなった渋沢栄一と、日本初の保険会社である東京海上の誕生です。
生涯 — 農民から幕臣、そして500社の創業者へ
渋沢栄一(1840-1931)は武蔵国血洗島村(現在の埼玉県深谷市)の豪農の家に生まれました。若い頃は尊王攘夷の志士として活動しますが、縁あって一橋家に仕え、やがて幕臣に。1867年のパリ万国博覧会に幕府使節団の一員として渡欧したことが、彼の人生を決定的に変えます。
ヨーロッパで渋沢が見たのは、株式会社・銀行・保険といった「多数の人からお金を集めて大きな事業を興す仕組み」でした。福澤が『西洋旅案内』で保険を紹介したのと同じ1867年、渋沢は現地でその仕組みを目の当たりにしていたことになります。
帰国後は明治政府の大蔵省に出仕して制度づくりに関わり、その後は野に下って実業界へ。第一国立銀行(現・みずほ銀行の源流)を皮切りに、生涯で約500の企業の設立に関与したと言われます。
1879年、東京海上保険会社 — 日本初の保険会社
明治12年(1879年)、日本初の保険会社である東京海上保険会社が設立されます。渋沢栄一は、この設立に発起人として関わりました(現在の東京海上日動火災保険の源流です)。
なぜ最初の保険が「海上保険」だったのか。当時の日本にとって、貿易と海運は近代化の生命線でした。しかし船が沈めば積荷はすべて失われ、荷主は破産します。この巨大なリスクを個々の商人が背負っている限り、日本の海運業は育たない——リスクを引き受ける仕組みがなければ、産業そのものが成立しない。渋沢が保険会社の設立に加わった理由は、慈善ではなく産業インフラの整備でした。
『論語と算盤』— 数字と倫理は両立する
渋沢の思想を象徴するのが、著書『論語と算盤』に示された道徳経済合一説です。利益の追求(算盤)と道徳(論語)は対立するものではなく、両立してこそ事業は永続する——という考え方でした。
この思想は保険業と極めて相性が良いものです。保険は「将来必ず支払う」という約束を売る商売であり、契約者の信頼がなければ1日も成り立ちません。目先の利益のために準備金を削れば、事業そのものが崩壊します。阿部泰蔵が明治生命で貫いた堅実経営と、渋沢の「論語と算盤」は同じことを別の言葉で言っているのです。
アクチュアリー試験とのつながり
渋沢が日本に持ち込んだ株式会社・銀行・保険という3つの仕組みは、そのままKKTの学習内容に対応します。株式会社制度と財務諸表は会計 第1章で、資金の流れと金融機関の役割は2027年度の新科目「金融システム」の守備範囲です。
そして忘れてはならないのが、保険会社が巨大な機関投資家でもあるということ。集めた保険料を運用して将来の支払いに備える——この運用の理論がKKTの投資理論50点です。渋沢が設計した「お金を集めて事業を興す」仕組みの内側で、現代のアクチュアリーは働いています。
次回の「日本の礎」は、両替商から身を起こして安田財閥を築き、共済五百名社(現在の明治安田生命の源流の一つ)を創設した安田善次郎を取り上げます。
※ 厳密に言えば(補注)
- 渋沢栄一は株式会社・銀行・保険といった仕組みの日本への導入と普及に中心的な役割を果たした人物ですが、これらを一人で「持ち込んだ」わけではありません。福澤諭吉による紹介や、明治政府の制度整備、多くの実業家の関与が並行して進みました。
- 東京海上の設立動機として本文では海運・貿易のリスクを挙げましたが、実際には華族の資金運用先の確保や政府の殖産興業政策など、複数の要因が重なっています。
- 保険会社の組織形態は株式会社に限られません。契約者が構成員となる相互会社も保険業に固有の形態として認められており、日本の大手生命保険会社にも採用例があります(連載の後半で扱います)。本文は、東京海上が株式会社として設立された経緯を説明したものです。
- 「将来必ず支払う約束を売る」は保険の性質を端的に述べた表現です。厳密には、損害保険や定期保険のように保険事故が発生しなければ保険金が支払われない契約も多く、保険は「所定の事故が生じた場合に支払う」約束です。
- 2027年度の新科目名(「会計・経済・金融システム」等)は日本アクチュアリー会の公表資料に基づく予定であり、詳細は各年度の資格試験要領で確定します。
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